第1回-----カーディフの波止場通り(1)

カ一ディフ中央駅の東側に「波止場(Wharf)」と名の付く通りか3本あるのをご存じであろうか。 波止場といっても、カーディフ湾はまだ南に2km先である。はて、どうしてこんな名前が、それもこんな所に、とふと思ったことがある。昔はこのあたりまで 海だったのだろうと勝手な想像をしてみたが、やはり釈然としない。この疑問は解決されることなく、私の頭の片隅に追いやられたままであった。

 もうあれから16年になる。調べものをするために、南グラモーガン州の地方史を読んでいた。開いた本のページには、古いカーディフ地図が載っていた。そ の地図は、16世紀初頭にジョン・スピードが制作したもので、カーディフ城と、その南に隣接する街が描かれている。街の東側は城壁で守られ、その西側は蛇 行するタフ川が街に大きく食い込むように流れている。
またその地図は、タフ川がセント・メアリー教会の敷地の一角を浸食して流れている様も描き出している。実はこの地図が作製される数年前に大洪水があり、 カーディフに大被害をもたらした。そのときの生々しい傷跡がこの1610年制作の地図に残っているのである。この被害にあった教会はその後もたびたびタフ 川の洪水と浸食にあい、ついに放棄されてしまう。そして今その教会はカーディフの目抜き通りセント・メアリーストリートにその名前を残すだけとなった。

 その地図をよく見ると、街路とその川が接する所に船が二艘描かれている。そこは、カーディフ湾からタフ川を遡航してやって来た船が物資を降ろし、また新 たな貨物を積み込み出帆していく波止場であった。その地図によると、その場所は多分今のミレニアム・スタジアム、以前はアームズパークとして親しまれた ウェールズ国立ラグビー場のあたりであろう。しかしそこはカーディフ駅の東側ではない。

 そこで現在のカーディフ地図を見てみた。現在の地図とはいえ、それは16年前のものであり、再開発されたカーディフベイはまだ影も形もない。そこには依 然として寂れたドック群が広がっている。カーディフ駅の東側を見ると確かに「波止場通り」とある。しかしよく見ると、それぞれに「運河(canal)」と いう単語が付いている。ということは、この波止場とは運河の波止場であり、運河の終点を示すものであった。そしてその運河とはカーディフをウェールズの首 都にする礎を築いたグラモーガンシャー運河に他ならない。

 カーディフは2000年の歴史を持つ。西暦1世紀、ローマ人がタフ川のほとりに砦を築いた。この事実がカーディフの名の起こりとなる。すなわち「タフ川 (タフ)のほとりの砦(カイル)」を意味するカイルタフがその語源という。その砦の位置が現在のカーディフ城のある場所である。ところが今の城は2番目の 砦跡に建てられたものであるという。つまり、現在のカーディフ城は、ローマ人が最初に築いた砦の跡にあるのではないらしい。最初の砦跡は現在もまだ発見さ れていないが、それは当時の壺が発見されているハイストリートのロイド銀行がある辺りであろうと推定されている。

 ローマ軍がウェールズから撤退し、さらにブリテン島から引き上げてしまうと、カーディフも歴史から消え去ってしまう。カーディフが再び歴史に登場するの は11世紀にノルマン人がこの地域に侵攻し、カーディフを彼らの特権都市(バラ)にしてからであった。それからというもの、19世紀初頭までカーディフは 人口2000人前後の農業を中心とする市場町として歩んできた。そのカーディフに革命をもたらしたのがグラモーガンシャー運河であった。(続く)

カーディフの波止場通り

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