第3回-----オワイン・グリン・ドウール

私をカーディフに招いてくださったウェールズ大学力一ディフ校の教授宅でお茶を飲みながら話をしてい たとき、話しがパブに及んだ。イギリスの生活とは切っても切れないパブではあるが、果たして大学の教授はそこへ出入りするのか疑問に思っていた。そこで恐 る恐る尋ねた。案の定、カーディフの町の中のパブなんかには行かないよ、とのことであった。その時教授は町のパブとして「オワイン・グリン・ドウール」の 名を挙げた。何か恐ろしいものでも口にするような口調であった。たしかにそのパブを見たことがある。カーディフ城の近くで、セント・ジョン教会がある通り にあったような気がする。その当時、オワイン・グリン・ドゥールなるものか何なのか、かいもく見当がつかなかった。オワインはオーエンのことだからだから 人名だろうと漠然と思っただけであった。イングランド人のその教授のあの口調だけが気にかかった。

 オワイン・グリン・ドゥール(Owain Glyn Dwr, 1354-1415)が何者か、ついに分かった。彼は1400年から1410年ごろまで、イングランドからの独立を目指し北ウェールズで「反乱」を起した ウェールズ人領主であった。ウェールズの解放と独立のため、多くのウェールズ人が彼のもとに結集した。そしてその「反乱」はすぐ全ウェールズに広がった。 イングランド人の重要な町であったカーディフも彼により焼き払われたのである。イングランド人にとって彼は凶暴な「反逆者」であった。

 オワイン・グリン・ドゥールは関東に独立国を築こうとした平将門に似ている。朝廷に反旗を翻した将門が「新皇」と名乗ったように、オワインは「プリン ス・オブ・ウェールズ」を名乗った。この称号はもともとウェールズ王とでもいうべきものであったが、ウェールズを征服したエドワード1世が息子工ドワード にこの称号を与えて以来、英国皇太子を意味するようになった。 これに関してはおもしろい話が残っている。ウェールズを征服したエドワード1世はウェールズ人諸公を集め、ウェールズに新らたに王を置くと宣言した。その 王はウェールズで生まれ、英語をしゃべらない、と告げた。居並ぶウェールズ人諸公はこの言葉に歓喜した。ウェールズはウェールズ人が治めるのだと。

 しかしその王とはエドワード1世の赤子の息子工ドワードであった。エドワードl世は身重の后をウェールズのカナ一ヴォン城に送り、そこで子を産ませたの であった。確かに息子エドワードはウェールズ生れである。また口もきけない赤ん坊であれば、当然英語もしゃべらない。エドワード1世は決して「嘘」はつか なかった。ちょっとできすぎた話ではあるが。

カーディフのパブに戻る。実は今そのパブのある場所は、カーディフで最初にパブが建った所だそうである。270年ぐらい前のことである。その当時のバブの 名はオワイン・グリン・ドゥールではなかった。当時そのような反逆者の名をイングランド色の強いカーディフのパブに付けるのは少々憚られたこであろう。お そらくこの名はウェールズ人がウェ一ルズ人としての自負心をとり戻してからのことで、比較的最近のことであろう。調べてみると案の定、今の名前は1970 年代になって付けられたものだそうである。1731年にこの場所に最初にできたパブは「マブリ・アームズ」と呼ばれ、その後数回名を変えた後、今の名と なったとある。

 かつての反逆者オワイン・グリン・ドゥールも、今日ウェールズの愛国的英雄として再評価されている。彼は数年間事実上のウェールズの独立を勝ちとった が、やがて劣勢となり、歴史から姿を消した。彼は決してイングランドの軍門に屈したわけではない。イングテンド王も彼を倒すことはできなかったのである。 アーサー王か霧の波方に消え去って行ったように、彼もまた、ただ消えて行っただけであった。またいつかウェールズを解放するために戻って来るという伝説を 残して。

 さて、そのパブの常連とはどのような人であろうか。私は残念ながら入ったことがないのでわからないが、超過激なウェールズ愛国者たちであろうか。それと も単なる酒飲みであろうか。観光客も多いのかもしれない。店内ではウェールズの悪口なんか、もってのほかであろう。いずれにせよその店に入るときには、あ のイングランド人の教授のように多少の「覚悟」が必要なのかもしれない。

オワイン・グリン・ドゥール

ウェールズ日本人会 email
Wales Japan Club All Rights Reserved
www.walesjapanclub.comに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。