第19回------ウェールズの守護聖人の祭り---マブサント(1)

 ウェールズにはLlanで始まる地名が多くある。Llanは教会を意味するが、元来は塀などで囲われた宗教区域を意味した。

  そのLlanの後にウェールズの守護聖人や王や川の名などが続き、「誰々に捧げられた教会」「何々川のほとりにある教会」という意味になった。例えば、カーマーゼンにある町スランダイロ(Llandeilo:deilは6世紀ケルトの聖人Teilo)は「聖タイロ教会」の意味であり、カーディフにあるランダフまたはスランダーフ(Llandaff:daffはカーディフを流れるTaf川)は「タフ川のほとりにある教会」、スランザウィ・ブレヴィ(Llanddwei Brefi)は「ブレヴィ川のほとりにある聖デイヴィッド教会」という意味になる。

そのような守護聖人の名を冠した教会をもつ村々では、村人たちはその聖人にちなむ教区独特の祭りを長く続けていたが、その祭りは、飲み、食い、踊り、果ては喧嘩,乱闘に及ぶもので、宗教行事と呼ぶにはほど遠いものであった。とはいえ、ウェールズはプロテスタントの国でありながら、中世のカトリックの祭りを思わせるような「守護聖人の祭り」が19世紀の中頃まで民衆文化として続いた、大変珍しい地域でもあった。

 

徹夜祭

 この守護聖人の祭りは、英語はウエイク、ウェールズ語ではグウィールマブサント、または単にマブサントと呼ばれた。ウエイクといえば、今では通夜のことだが、それはもともと守護聖人の祝祭日の前夜に村人たちが教会に集まり、飲み、食い、歌い、踊ったりする徹夜祭のことであった。しかし、後にウェールズでは、この徹夜祭の部分が聖人の祝祭日から切り離され、秋の収穫期にマブサントとして行われるようになった。この宗教色を切り離したウエイク、またはマブサントは、世俗の祭りとして15世紀に始まり、18世紀には最盛期を迎え、ウェールズの各地で19世紀の中頃まで行われた。

 

マブサント

 初期のマブサントはイングランドとの国境に近い北ウェールズの町で行われた。その祭りの形態は、市(マーケット)や縁日(フェア)の複合したようなもので、その規模は大きく、広範囲な地域から人々がやって来た。1633年7月の日曜日にデンビーシャーのグウェルシストで行われたマブサントには4000人が各地から集まり、モリスダンスやスポーツに興じたという。一方、南ウェールズの田舎でマブサントが行われるようになったのは、1650年以降のことであった。

 マブサントは日曜日から開始されたが、実はこれが大きな問題であった。と言うのは、日曜日に祭りを行うということは、神聖な安息日を汚す行為であり、教区の牧師たちはそのような神の教えに背く祭りを非難し、止めさせようとした。中には、教区民に5シリング払い、日曜日からではなく月曜日から行うようにさせた牧師もいたという。マブサントが姿を消していったのは、そのような牧師たちの日曜日に始まるこの祭りに対する非難によるとも、またその祭で行われる喧嘩や乱闘、そして野蛮なサッカーにあるとも言われている。

 

喧嘩と乱闘

 祭りと言えば、喧嘩と乱闘がつきものである。酒が入ると、火に油を注ぐことになる。その喧嘩や乱闘は、地元の若者の集団と他の教区からやって来た若者たちとの間で行われるのが常であった。教区同士の乱闘であったのだ。時には両者は川を挟んで対峙し、川の真ん中で戦いを始めた。その戦列には女性も加わり、兄や弟と共に戦ったという。その乱闘は、棍棒で殴り合い、石を投げ合うという激しいもので、当然死者も出た。そのために禁止されたマブサントもあったという。

 

サッカー

 祭りでは、隣接する教区同士の対抗試合としてサッカーが行われた。それはスポーツとも乱闘とも区別のつかないような代物であった。参加人数に制限はなく、両チームでおよそ500~600人が参加したという。ゴールは5~6km離れたそれぞれの教区の教会であった。ルールとおぼしきものはほとんどない。ボールは必ず足で蹴らねばならないという規則もなかったようで、ボールを手に持って走ることもできたし、相手を殴ったり、投げ飛ばしたりしてボールを奪うことも許されていた。つまり現代の格闘技とラグビーとサッカーを一緒にしたようなものが当時のサッカーであった。当然怪我人も多く出た。かなり乱暴ですさまじい「スポーツ」であったことが想像される。(続く)
 19 Yoshiga prof

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