第11回------ウェールズ人の海賊たち(2)

ナイトに叙爵されたバッカニアの長、サー・ヘンリー・モーガン

ウェールズ人ヘンリー・モーガン(1635?-88)はバッカニア、それも、もっとも成功したバッカニアとして有名である。バッカニアとは、17世紀後半にカリブ海でスペイン植民地の居留地や都市を襲い、略奪の限りをつくし、またスペインの商船を襲撃した何千人もの海賊のことである。しかし、モーガンはただそれだけではなかった。彼はバッカニアであり海賊であり、提督であり将軍であり、農園主でありジャマイカの副海事裁判所の判事であり、最後にはジャマイカ副総督にもなったのだ。

モーガンは1635年頃、南ウェールズのモンマス州ニューポート近くのスランリムニの荘園に生まれたと言われている。しかし、なぜ彼が、1655年も押し迫った頃、西インド諸島のバルバドスにやって来たかということに関しては諸説がある。一説に、ブリストルで誘拐され、バルバドスの農園主に売られ、年季奉公人としてバルバドスやって来たが、年季奉公から逃れるため、クロムウェルがスペインからヒスパニオラ島を奪うために派遣したヴェナブル将軍の率いる遠征隊に加わったと言われている。また一説には、彼はクロムウェル軍の下級将校としてバルバドスにやって来たともいう。ともあれ、モーガンが加わった遠征軍はヒスパニオラ島攻略に失敗し、目標を防御の薄いジャマイカ島に移した。その結果、イギリス軍はジャマイカ島とそこにある天然の良港ポート・ロイヤルを手に入れた。イギリス軍はジャマイカを守るために、自国の海賊に私掠免許状を与え、軍事力を強化することにした。しかし、問題は誰がその海賊たちを束ねるかであった。ジャマイカの総督サー・トマス・モディフォード(1620-79)はモーガンに目を付けた。

モーガンはクリストファー・ミングス提督(d.1666 )指揮下の艦隊に配属され、サンチャゴやメキシコ湾岸を襲った。その間、彼は艦隊や艦船について、また海賊稼業に関しても、多くのことを学んだようである。1663年に行なわれた遠征では、バッカニアたちは、ユカタン半島南西部にある2つの砦とスペイン正規軍に守られたカンペチェの町を襲った。そのときのバッカニアの数は1000人を超えていたが、この兵力や、町や砦を攻撃することからも分かるように、彼らは「海戦」を行う海賊というよりもむしろ、地上戦を行う軍隊であったという方が適当であるかもしれない。すなわち船は兵士を運ぶ手段にすぎなかった。モーガンはこのとき遠征艦隊の5人の船長の1人であったが、彼が事実上この遠征軍の指揮官であったという。しかし陸では華々しい活躍をしたモーガンも、船の上では災難続きであった。1669年、彼の船オックスフォード号は、乗組員の送別会で酔っぱらった水兵が火縄銃を発砲し、その火花が側にあった火薬の樽に引火して大爆発を起こした。彼の船は粉々になり、350人が死んだが、運の強いモーガンは奇跡的に助かった。また彼の乗った別の船は珊瑚礁に乗り上げ大破したが、岩の上に逃げた彼は間一髪で救出された。彼は強運の持ち主であった。この強運は生涯続くことになる。

ここで、バッカニアが使用した船について触れておく。海賊御用達の船はスループ船(いわゆる武装カッター)と呼ばれるもので、かなり小さなものであった。それらの中でも、8門の砲を備えたモーガンのドルフィン号は比較的大きかったというが、それでも甲板の長さは15メートル程度で、50トン級の船であった。しかし、ほとんどの海賊船はもっと小さく、ボート同然の1本マストの船で、必要なときにはオールで漕ぐ種類のものであったという。

バッカニアは襲撃する町の近くに上陸し、そこから町に向けて進軍する。近くといっても、彼らがメキシコのかつてのオルメカ文明の中心地のひとつであったビヤエルモサを襲撃したときは、フロンテラに上陸し、内陸部に80キロも行軍しなければならなかった。しかし略奪を終え上陸地点に戻ると、彼らの船はスペイン軍に奪われていた。船を失ったモーガンらは、新たに2隻のスペイン船と四艘のカヌーを捕獲し、海流に逆らいながら800キロをオールで漕いで帰港する羽目になった。

1666年、ジャマイカの総督サー・トマス・モディフォードはモーガンをポート・ロイヤル在郷軍の司令官に任じ、また彼に「私掠免許状」を与えた。また、モーガンは有名な海賊でありバッカニアであるエドワード・マンスフィールド(d.1666 )の配下として、船の指揮を任されたが、彼の死後、総督はモーガンを15隻からなる艦隊の司令官に任じ、また海賊たちもモーガンを彼らの首領に選んだ。1668年、モーガンはプエルト・ベリョ港を攻撃した。彼らは23艘のカヌーに分乗し、夜間海岸沿いに進んだ。午前3時に上陸し、町を襲い、英国人捕虜を11人救出し、そして殺戮と略奪を行なった。1670年1月には40隻の船と2000の兵力でパナマを襲った。モーガンらはカリブ海側にあるサン・ロレンソの砦を占領し、それから36隻の大型カヌー作り、それに1400人の海賊を乗せ、チャグレス川を遡上し、飢えと赤痢に悩まされながら、ジャングルや高い山を越え、パナマ地峡を横切り、パナマに達した。彼らはその都市を襲い、略奪し、火を放った。パナマは灰燼に帰した。しかし、思ったほどの財宝を手に入れることができなかった。というのは、モーガンがパナマを襲う少し前に、黄金と財宝を満載した2隻のスペイン船が既に本国に向け出帆していたからである。モーガンは、サン・ロレンソの砦に戻ると、戦利品の中でも一番高価な物を取り、不満を叫ぶ部下たちを残し、さっさと引き上げてしまった。残された部下の海賊たちは仲間割れを繰り返し、散り散りとなったという。

このパナマの略奪はロンドン政府を大いに当惑させた。というのは、当時はもう既に、イギリスとスペインは公式には和平の状態にあったからだ。ジャマイカの総督サー・トマス・モディフォードは更迭され、本国に召還された。新総督はバッカニアをジャマイカ防衛に使用するという政策転換をした。モーガンは囚人として1672年にロンドンに送られた。その時はもうクロムウェルの時代は終わり、王政は復古し、チャールズ2世の治世下であった。モーガンが拘束されたという記録はない。逆に彼は第2代アルバーマール公爵と親しくなり、またチャールズ2世からも厚遇された。1674年1月、チャールズ2世は新ジャマイカ総督の政策転換でジャマイカがスペインの脅威に曝されていることを知ると、ジャマイカ防御に当たらせるため、モーガンを騎士(ナイト)に叙し、ジャマイカの副総督に任命した。

彼はその後1687年にアルバーマール公爵がジャマイカ総督として赴任するまで、総督代理、海軍中将、ジャマイカ連隊司令官、海事裁判所判事、治安判事として辣腕を振るった。そのような彼も、新総督に任を解かれ、酒浸りの日々を送り、健康を害していった。のちに大英博物館の基礎を築くことになる若い医師ハンス・スローンが、病弱の公爵夫人に付き添ってやって来た。彼はそこで病に犯されたモーガンを診察するが、既に手遅れであった。(モーガンは西洋の医術よりもジャマイカの民間療法を信じていたという。)モーガンは1688年8月25日に死亡した。彼は「畳の上」で死んだ数少ない海賊の1人であった。
(つづく)

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ヘンリー・モーガン

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