第12回------ウェールズ人の海賊たち(3)

大海賊バーソロミュー・ロバーツ

海賊黄金時代の最後を飾る最も偉大なる大海賊バーソロミュー・ロバーツ(1682?-1722)も、やはりウェールズ人であった。彼はペンブロークシャーのリトル・ニューカースルで生まれ、13歳で船乗りになった。彼は有能で、また酒は一滴も飲まない絶対禁酒主義者であった。1718年、ロバーツが36歳のとき、彼は奴隷船プリンセス号の2等航海士として、ロンドンからギニア海岸にむけ出帆する。ところが、ロバートの乗るプリンセス号は、海賊船ロイアル・ローバー号に拿捕され、彼は捕虜となった。その海賊船の船長ハウエル・デイヴィス(d.1719)もまたウェールズ人であった。ロバーツには海賊となることを拒否する道も残されていたが、彼は海賊となり、デイヴィスと航海を続ける道を選んだ。ここに、大海賊への道の第一歩が踏み出されたのである。

6週間後、デイヴィス船長はギニア湾にあるポルトガル領プリンシベ島の戦闘で殺されてしまった。では、このような場合、つまり海賊船の船長に欠員が生じた場合はどうしたのであろうか?われわれは、海賊船の乗組員の間で次期船長を巡って血なまぐさい決闘でもあるかのように思うが、それは違う。信じられないかもしれないが、海賊社会は当時ではもっとも「民主主義」の進んだ組織であった。つまり、投票で次の船長を決めたのである。海賊船の乗組員は、知的で、勇気があり、臨機応変の才があるロバーツを船長に選んだ。ここに海賊史上初の、絶対禁酒主義を貫く海賊船長が誕生した。彼は酒の代わりに、紅茶をすすっていたという。また部下たちには賭博を禁じたという。

船長となったロバーツは、海賊としても有能そのものであった。まず手始めとして、プリンシベ島を襲い、略奪し、先代の船長デイヴィスの復讐を果たした。それから彼はブラジルに向けて航海した。ブラジルのパイア港内には、財宝を積み込み、出帆を待つ42隻からなるポルトガル船団が停泊していた。ロバーツは、船団の中で最も大きな船サグラダ・ファミリア号にさりげなく近づき、その船に部下を乗り込ませ、砂糖、たばこ、金の延べ板や金製品、それにダイアモンドをはめ込んだ十字架、それにブラジルのモイドール金貨4万枚を奪った。

1720年までには、海賊としてのロバーツの名は知らぬ者がいないほど有名になった。ロバーツは自分自身の海賊旗を考案し、それを自分の船に掲げた。船乗りたちは、その黒い旗を見ただけで恐怖に陥ったという。事実、その通りのことが起きた。1720年6月、彼と60人の海賊たちが乗ったスループ船(砲を6~12門備えた全長10m~20mの1本マストの高速船)1隻が、その海賊旗を掲げ、ラッパや太鼓の音を響かせて、ニューファウンドランドのトリパニー港に入港すると、22隻の船の乗組員約1200人が船を棄てて、あわてて陸に逃げようとしたという。ロバーツは財宝を奪い、それを運ぶために1隻だけを残し、他の21隻を破壊した。しかし、財宝を積みその港を出たとき、フランスの小艦隊に遭遇した。ロバーツはひるむことなくこれを攻撃し、40門の砲を備えた立派な大型艦を奪い、ロイアル・フォーチュン号と改名し、彼の旗艦とした。海賊たちは、船を襲い、分け前にあずかったあとは、スリナムやシエラ・レオネに上陸し、懐が空っぽになるまで遊蕩に耽った。しかし、いつもこのような成功ばかりではなかった。あるときは、獲物を求めて航海中に、食糧と水が底をつき、全員が死の淵をさまよったこともあった。

英国海軍は、海賊ロバーツを捕らえるべく、海軍艦艇中屈指の優秀な大型艦スワロー号とウェイマス号を派遣した。6ヶ月間の捜索の後、1722年2月5日スワロー号はギニア沿岸のセント・ロペス岬の沖に停泊中のロイアル・フォーチュン号を発見し、雨と雷鳴と稲妻の中、ロバーツの船に忍び寄り、奇襲攻撃を行った。スワロー号は海賊を欺くため、フランスの軍艦旗を掲げていた。ロイアル・フォーチュン号からは、それがフランスの奴隷船なのか、ポルトガルの商船なのか、よく分からなかった。しかし、近づいて来たスワロー号に、かつてその軍艦から脱走して海賊になったひとりの部下がそれと気づいた。多くの海賊の乗組員は昨晩呑んだ酒の酔いから醒めておらず、また泥酔していた者も多々いたので、ロバーツは一度は逃げる決意をしたが、それを翻し、戦う最終決断を下した。両者は午前11時頃、ピストルの弾が届くほどの近距離で並んだ。ロイアル・フォーチュン号はロバーツの旗印である黒い海賊旗を掲げた。一方、スワロー号はフランス軍艦旗を降ろし、英国海軍旗を揚げた。海賊船から射撃が始まり、すぐさまスワローからの応戦の片舷斉射がなされた。

洒落者のロバーツは、いつものように深紅のダマスク織りの胴着と、膝丈のズボンを穿き、赤い羽根毛のついた帽子を被り、サグラダ・ファミリア号から奪ったポルトガル王の胸を飾るはずであったダイアモンドをはめ込んだ十字架を首から太い黄金の鎖で吊るしていた。この戦闘中、彼はこの十字架の他に2丁の拳銃を両肩から絹製のひもで吊っていた。彼は堂々と指揮をとっていたが、戦闘開始からまもなく、スワローからの砲撃により、ぶどう弾(散弾)で喉を裂かれて死んでしまった。ロバーツの死体は、あらかじめ彼から指示されていたように、海賊たちにより舷側から海へ葬られた。1時半頃にはロイアル・フォーチュン号のメーンマストが砲撃で倒れ、既に指導者ロバートを失っていた海賊たちは戦意を失い、白旗を掲げ、降伏した。ロイアル・フォーチュン号の乗組員は52人の黒人を含む152人であったが、ロバートの他2人の海賊が死に、10人が負傷していた。一方、スワローの乗組員に戦死者はいなかった。その後ロイアル・フォーチュン号の乗組員は、裁判を受けるためにコースト岬の城塞に送られた。そこには、別の海賊船レンジャー号の乗組員が裁判を待っていた。海賊たちのある者たちは釈放されたが、最終的に両海賊船の海賊165人が裁判にかけられた。その結果、54人に死刑が宣告され、1722年4月、2人を除く52人の海賊が絞首刑に処せられた。最後の大海賊ロバーツの死をもって、海賊の黄金時代は終わろうとしていた。(ウェールズ人の海賊たち・完)

bartholomew roberts

バーソロミュー・ロバーツ

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