第22回------ウェールズの守護聖人の祭り---マブサント(4)

 ション・ア・ネルは無秩序を象徴する人物だが、聖人ではない。ところが人々から崇められる対象である聖人もまた、民衆から虐待され、追放される対象となった。

テューダー叩き
 19世紀のモントゴメリーシャーのダロウエンという教区のマブサントでは、聖テューダーを叩いて追い払う奇祭があった。その祭りでは、まず聖テューダー役の少年が選ばれる。その少年が竿または枝を肩に担いで教区を歩くと、村人たちはその聖テューダーを叩いて追い回し、その後について行進する。それが終わると酒盛りが始まり、そしてスポーツが行われる。

聖カノッグの追放
 ブレコンの近くで行われるマブサントでは、聖カノッグが村から追放される対象となる。聖カノッグの役には、よそ者か、または教区民に忌み嫌われている者が、金で雇われる。聖カノッグに扮したその男は、イスに座らされ、村を引き回され、教区民の嘲笑の中、最後には川に投げ込まれる。教区民は、なぜ彼らの守護聖人である聖カノッグを川に投げ棄てるのか、その理由を知らない。

では、これらの儀式化された聖人たちの迫害と追放は何を意味するのか? リチャード・サジェットという学者は、それはテューダー朝末期からステュアート朝時代に始まった教区の世俗化という社会構造の変化によるものであり、特に救貧法と密接な関係があると言う。

教区の世俗化と地方行政改革
 従来、教区とは宗教行政の基本単位であった。しかしテューダー朝末期からステュアート朝時代には、教区は世俗化され、地方行政の最小単位となり、教区に自治がまかされるようになった。その結果、道路や橋などの修繕・管理という面倒な仕事が教区に押し付けられた。それらの中でも、教区にとって一番の頭痛の種は貧民の救済という問題であった。貧民の救済とは、今日風に言えば社会福祉と年金に相当する問題である。ところが、これに対する備えは、ウェールズがもっとも遅れていた。

救貧法
社会的弱者に対する救済は、中世ではギルドや教会の慈善活動に委ねられていた。ところがテューダー朝になると、以前のような体制が、崩壊または弱体化したため、政府の行政指導による貧民救済対策がとられるようになった。それまでは、貧民救済のために教会で日曜募金が行われていたが、新たに制定された救貧法により、強制的に救貧税が徴収され始めた。負担は重く教区民の上にのしかかった。

定住法
1662年には、浮浪者取り締まりの強化をはかる救貧法の一つである定住法が制定された。その法により、教区の生まれではなく、教区内に土地も仕事ももたない者を、当人の出身教区に送還することが可能になった。すなわち、教区の救貧税の負担になりそうな浮浪者を排除することができるようになったのである。また、よそ者を自分の教区に住み着かせないことも可能になり、また、教区に入って来る移住労働者には本籍を証明する書類を持たせ、救貧対象者から外したのであった。

1834年の改正救貧法
 サジェットは、マブサントがもっとも盛んであった18世紀のウェールズには、貧民に対する敵意がみなぎっていたと言う。このようなわけで、教区に属さない貧しい人々は必然的に教区と教区の境界地域へと追いやられて行ったが、先に挙げた教区から聖人たちが追放されるという象徴的な行為の背後には、教区の中の異質の人々や相容れない概念の排除が隠されていると彼は言うのである。

さらにサジエットはマブサントと救貧法との関係を補強するために、教区自治の終わりがマブサントの終わりでもあったと指摘する。つまり1834年に改正された改正救貧法により、救貧行政の単位は教区から救貧区連合となり、教区から貧民救済という重荷がなくなると、マブサントも消滅していったと言うのである。信じるか,信じないかは別として、興味深い説である。

祭りと実生活は互いに補完しあうものだと言われるように、実生活のレベルでは不可能なものでも、祭りのレベルでは可能になる。そのようなところに祭りの意味もあるのだと言われる。村人たちは、実生活おいては簡単に解決できない教区に生じた不満や無秩序を、祭りの中で、それらを守護聖人やシオン・ア・ネルに託し、彼らを象徴的に追放することにより解決したのである。「祭りは社会統合に寄与するもの」という考え方があるが、まさにそのような観点でウェールズのマブサントを見るのも興味深いものである。


 

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