第14回------トレマドックの町と詩人シェリー暗殺未遂事件

詩人は詩句ひとつで記憶されるものである。「古池や」といえば芭蕉。「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」とくれば、シェイクスピア。「事実は小説より奇なり」とは、昔のNHKクイズ番組の決まり文句であったが、これはイギリス・ロマン派の詩人バイロンの言葉だとか。「美しきものは永久の喜び」や「美は真なり、真は美なり」は、同じロマン派詩人のキーツの言。「冬来たりなば春遠からじ」と言ったのはシェリー(P. B. Shelley, 1792-1822)であった。今回は、そのシェリーと北ウェールズの町トレマドック(Tremadog、ウェールズ語綴りではTremadoc)の話である。

シェリーといえば、ちょっと「過激」な反権力・反既成秩序を叫ぶ理想主義者で、およそ世間の常識にはとらわれない、言い換えれば、放縦でむちゃくちゃな私生活を送り、また、人のお金は自分の金と思っていた節もある男であった。のちに准男爵となる裕福な地主の家の長男として生まれた彼は、オックスフォード大学在学中の1811年3月に『無神論の必要性』という物騒な小冊子を出版し、退学処分を受け、父親からも勘当されてしまった。ロンドンのパブ経営者の娘ハリエット・ウエストブルック(Harriet Westbrook, 1795-1816)と恋愛関係にあった彼は、19歳のとき16歳のハリエットとエジンバラに駆け落ちし、結婚する。その後、シェリーはアイルランド問題や、カトリック教徒開放運動に関心を持ち、『アイルランド人への呼びかけ』という政治的パンフレットを書き、それを携え、1812年2月にアイルランドに渡ったが、十分な成果を上げることなくダブリンを去り、4月にはウェールズに戻った。このころから彼は当局の要注意人物としてマークされるようになった。

さて、北ウェールズの西海岸に、かつてカナーヴォンシャーとメリオネスを分けるウェールズ語で「広大な砂地」を意味するトラエス・マウル(Traeth Mawr)というグラスリン川の河口があった。その両岸には高い山がそびえ、その河口といえば、流砂がしばしば旅人を飲み込み、危険きわまりなく、トラエス・マウルは南北の交通を大いに妨げていた。北ウェールズの有力者であるサー・ジョン・ウィン(Sir John Wynn of Gwydir, d.1627)は、この河口を干拓し農地を作ろうと考えた。また、それは交通の便に大いに寄与するはずであった。そこで彼は1625年、ロンドンに住む著名なウェールズ人実業家サー・ヒュー・ミドルトン(Sir Hugh Middleton, 1560-1631)に干拓事業の援助を求めたが、いともあっさりと断られてしまい、計画は不発に終わった。ウェールズ人の動物学者であり旅行家であるトマス・ペナント(Thomas Pennant, 1726-98)は、この経緯を『ウェールズ旅行記』に記したが、19世紀になり、ペナントの旅行記を読んだ国会議員ウィリアム・A・マドックス(William A. Madocks, 1773-1828)は、この幻に終わった干拓計画に大いに興味をもち、それを実現すべく実行に移した。

1789年、マドックスは川岸の砂地を埋め立てて、ウェールズ語で「マドックスの町」を意味するトレマドックの町を作った。1811年には河口と海を切り離すために大きな堤防が作られ、これにより広大な干拓地が生まれた。しかし、この堤防が1812年に大嵐で決壊したため、マドックスは私財を抵当に入れ、資金を捻出し、修復工事を行っていた。折しも、ちょうどそのころ、ウェールズを放浪していた詩人シェリーはこの復旧工事に出くわした。彼はこの干拓計画の趣旨に大いに感動し、不足していた資金の募金活動を買って出たのである。見上げた心意気と称賛せざるを得ない。しかし翻って考えてみると、彼の放浪の理由のひとつが、借金の取り立てから逃れるためであったのだから、他人のために募金活動をするよりも、自分の借金をどうにかしろと言いたくなる。(しかし、そこがシェリーのシェリーたる所以であるのだから、致し方ない。)それはさておき、さすがに詩人だけあって、ボーマリスの集会での彼の募金演説はすばらしかった。シェリーは言う。

「トレマドックの堤防は人間の力量を示すもっとも高貴なる事業のひとつである。その堤防は博愛という、もっとも気高い、人間生来の感情の中から発した人間性の表明なのである。その堤防を救わなければならない。壊してはならないのだ。そうなのだ。人々が今や生活し、まっとうな生計を立てているその場所は、かつて不毛の海原の波打つ所であった。時を遡り、これらの島々を一瞥してみよ。飢餓が数百万人もの人々を狂気に駆り立てたことを思え。そして3000人を下らない人々に生活のすべを与えるこの事業が何とすばらしく、また栄光に満ちたものかを認識せよ。私はこの偉大な、すばらしい大儀のため、我が財力の最後の1シリングをも注ぎ込み、我が生命のすべてを捧げることを誓う。この事業を目の当たりにして、われに続かざる者ありや。」

借金で首の回らないシェリーに、注ぎ込む最後の1シリングが残っていたかどうかは別として、この演説は大成功であった。感動した多くの人々から多額の募金が寄せられたが、それと同時に、この彼の演説は当局の注意も惹いたのである。さらに悪いことには、「我が生命のすべてを捧げる」と言ってしまったシェリーに、まさに「生命」にかかわる大事件が待っていたのである。

募金活動中、彼はトレマドックにあるマドックスの邸宅タナラルト(Tan- yr- Alt)に滞在していたが、1813年2月26日の真夜中、その家である事件が起きた。賊が侵入したのである。シェリーは物音に気付き、当時の物騒なの旅行には必需品であった2丁の拳銃を手に、階下に下りていった。そして、その侵入者とシェリーとの間に銃撃が交わされた。シェリーに負傷はなかったが、その賊は逃亡してしまった。この侵入がシェリーを暗殺する目的のものであったのか、それとも単なる物盗りの仕業であったのかは、未だ不明である。この事件そのものが、シェリーの狂言だと言う者もいるが、恐らくこれは、シェリーの政治的信念と活動に対する反感から生まれた政治的背景を持った事件であろうと考えられている。結局これを機に、シェリーはウェールズを去り、二度と戻ってくることはなかった。

シェリーはその後1822年にイタリアで溺死するまでの9年間、波乱の人生を送った。その後、トレマドックの町では、1888年に、のちにアラビアのロレンスとして知られることになるトマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence、1888?1935)が生まれた。一方、トラエス・マウルでは、堤防の脇にトレマドックの双子の町ともいえるポーツマドック(Porthmadog、ウェールズ語綴りではPorthmadoc)の町ができた。そこにはフェスティニオグ鉄道のターミナル駅が作られ、奥地のブラエナイ・フェスティニオグ(Blaenau Ffestiniog)で採石されたスレートがこの堤防の上に敷かれた鉄路を通り運ばれて来た。そしてポーツマドックの港から海外やイギリス各地に向け積み出された。また、この堤防の上には鉄道の他、現在A487となっている道路も作られた。堤防は英国では「橋」と見なされているため、この堤防でも通行料が2003年9月まで取られた。私はその1ヶ月前の2003年8月にここを通り、確か50ペンス払った覚えがある。1ヶ月の差で通行料を取られたのは残念であったが、ものも考えようで、「我が財力の最後の1シリングをも注ぎ込む」と言ったシェリーに対し、通行料50ペンスを払ったことで私も顔向けできた。私もマドックスとシェリーの恩恵を受けたひとりなのだから。

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