第16回------蒸気機関車の発明者トレヴィシックと日本

1804年2月21日、南ウェールズの製鉄の町マーサーで鉄道史上初の蒸気機関車が走った。その蒸気機関車の名は製鉄所の名をとってペナダレン号とつけられ、ペナダレン製鉄所からアベルカノンのグラモーガン運河まで、10トンの鉄と70人を乗せた5両の貨車を時速8キロで牽引した。その蒸気機関車の設計、製造者は南イングランドの西の果てのコーンウォールに生まれたリチャード・トレヴィシック(Richard Trevithick, 1771-1838)であった。

 蒸気機関車の発明者はジョージ・スチーブンソン(George Stephenson 1781~1848)では?と思う人は多いが、実はスチーブンソンは1829年に「世界最初の鉄道」とされている運行管理体制の整ったリバプール・アンド・マンチェスター鉄道のために、息子のロバートともに蒸気機関車ロケット号を作った人物である。その蒸気機関車は40トンの貨物を牽引し、最高速度時速40kmで走ったという。トレヴィシックのペナダレン号が走った25年後のことであった。その後、ジョージ・スチーブンソンは「鉄道の父」として尊敬を受けることとなり、スチーブンソンが蒸気機関車の発明者と勘違いされるようになった。トレヴィシックにとっては迷惑な話である。


 このコーンウォール生まれのトレヴィシックは、故郷の錫鉱山の揚水蒸気機関技師として、蒸気機関のボイラーの改良に携わっていた。当時鉱山で使用されていた蒸気機関はワットの改良した巨大な低圧蒸気機関であったが、トレヴィシックはこれに代わる小型高圧蒸気機関を発明した。そして、彼はこの蒸気機関を乗り物の動力源として利用することを思いついた。


 トレヴィシックは、1801年頃「蒸気車」パフィング・デヴィル号を作り、ロンドンの街路での走行に成功した。しかし、この乗り物は、それが出す騒音が馬を驚かせ、怯えさせるということで禁止されてしまった。行き場を失った彼は、南ウェールズのマーサー・ティドヴィルにあるペナダレン製鉄所の蒸気機関技師となった。


 その当時、マーサーの4つの製鉄所で作られた鉄はグラモーガン運河でカーディフに送られてにいたが、ペナダレンとアベルカノンの間の運河は輸送量の増大で大渋滞を起こしていた。そこでトレヴィシックはこの間を鉄道で結ぶことをペナダレン製鉄所のオーナーのサミュエル・ホムフレイ提案し、それが採用された。彼は蒸気機関車ペナダレン号を作り、走行に成功した。だが、それも長続きしなかった。と言うのは、彼の蒸気機関は回転にむらがあり、さらに、歯車で車輪を駆動させていたため、歯車も損傷しやすく、彼の蒸気機関車はまだ完成の域には遠かったのである。


 しかし、トレヴィシック失敗の背景には、彼の蒸気機関車の抱える問題の他にさらに重大な問題が潜んでいた。それは当時のレールにあった。その頃の「鉄道」は、馬が挽く軽量の馬車鉄道が主流で、レールもその重量に耐えることができるくらいの、硬いが脆い鋳鉄で作られていた。しかし、ペナダレン号は重量が5トンもあり、レールはその重さに耐えることができず、潰れて壊れてしまい、使い物にならなかった。本格的な鉄道時代は、まず機関車の重量に耐える銑鉄のレールが登場するのを待たなければならなかった。ここに早く生まれすぎた天才トレヴィシックの悲劇があった。


 その後、彼は蒸気機関車の開発を諦め、南米のペルーの鉱山に蒸気機関を導入するというビジネスに手を出すが、結局失敗に終わり、失意のうちに帰国する。故郷に戻っては来たものの、家族は離散して久しく、孤独の中、彼は再び蒸気機関の発明に取り組むが、いずれも事業的には成功せず、病を得て、1838年に死亡する。良いとこなしの人生であった。彼には妻と4人の子供がいた。息子たちは、このような父親をもちながらも、みな立派に成長し、成功した。妻のジェーンは彼らの成功を見届け、1868年に死亡した。


 しかし、話はこれだけでは終わらない。彼の孫2人の名が明治初期の日本に突如現れるのである。それもお雇い外国人鉄道技師として。一人は、フランシス・ヘンリー・トレヴィシック(Francis Henry Trevithick 1850~1931)、もう一人はフランシスの兄リチャード・フランシス・トレヴィシック(Richard Francis Trevithick 1845~1913)である。21歳のフランシスは新橋・横浜間の鉄道が開通した4年後の1876年(明治9年)に来日し、神戸と横浜の官営鉄道工場の技師として21年間日本に滞在し、活躍した。また兄のリチャードは、弟フランシスに遅れること12年、同じく鉄道技師として来日し、1904年に帰国した。彼はその間、国産初の860型蒸気機関車の製造を指揮したことで知られている。「蒸気機関車の父」としての祖父のDNAが脈々と引き継がれ、それが日本で花開いたのである。


 しかし、孫のフランシス・ヘンリー・トレヴィシックは、兄リチャードが日本初の蒸気機関車を設計・製造したにもかかわらず、不当にもその功績は日本人のものとなってしまったと、功績の認められない親から孫へと続くトレヴィシック家の不運を次のように嘆いている。

 「歴史は繰り返す。祖父のリチャード・トレヴィシックが高圧蒸気機関の実用化に取り組んでいたとき、今は亡きジェームズ・ワットから狂気の沙汰だと言われた。また大衆は彼が最初の蒸気機関車の発明者であり、製造者であるということを知らない。そのように、日本人は神戸のリチャード・トレヴィシックが最初の蒸気機関車の設計者であり、製造者であるということを知ることはないであろう。それどころか、その栄誉は機械工学の知識をほとんどもたない日本人に既に与えられているのである。」(アンソニー・バートン『リチャード・トレヴィシック:蒸気の巨人』(Aurum Pr Ltd, 2002年. P231-232. )

 フランシスが嘆くトレヴィシック家の宿命もわかるような気がする。日本でも当時は彼の言うような状況であったのかもしれない。しかし、今ではトレヴィシックの孫たちの功績は、少なくとも鉄道に興味をもつ人々の間では知られている。祖父のトレヴィシックのウェールズでの世界初の蒸気機関車の運行は、日本の鉄道の黎明期におけるその孫たちの活躍に繋がっているのである。

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