第17回------カーディフ城と鹿鳴館

カーディフの名所旧跡といえば、白亜のポートランド大理石で建てられた市庁舎、裁判所、そして博物館の建物群であり、またそのすぐ西にあるカーディフ城であろう。前者の大理石の建物群は20世紀の初頭、石炭産業から上がる莫大な利益で建設され、今ではカーディフの繁栄を記念するモニュメントとなっている。

 一方、カーディフ城は2000年前にこの地に進駐してきたローマ軍が、カーディフを流れるタフ川のほとりに砦を作ったことに始まる。そのときの城壁の一部は、今でも見ることが出来る。11世紀になるとノルマン人がこの地にやって来て、砦跡に築山を築き、その上にノルマン式の木造の天守(キープ)を置いた。これは、中世の典型的な「モット・アンド・ベイリー」型の城で、「モット」とは半球型の築山で、「ベイリー」とはそれに付随する柵や壁によって守られた囲い地のことをいう。このようにして、このローマ軍の砦跡は再び使用するようになり、木造の天守はやがて石造のものに変わった。

 その後、この城は数多くの領主たちの手を経て、1776年に結婚により初代ビュート侯爵のものとなった。領地から産する石炭と鉄で、世界で最も裕福な貴族の一人となった第3代ビュート侯爵は、当時のイギリスの建築家としては最高峰のウィリアム・バージェス(1827-81)に命じ、城の居住部分を大改装させ、多くの華麗で豪華な部屋からなる城館を作らせた。バージェスは19世紀のイギリスを代表する建築家で、ゴシックを復活させ、中世趣味豊かな建物を作った。カーディフの北の樹木の茂る丘の中腹に建てられたコッホ城というロマンチックな中世風の城も彼の設計になる。

 さて、話代わって日本の鹿鳴館だが、この建物はバージェスが設計したものではなく、コンドルが設計したのである。コンドルと言っても、南アメリカ大陸のアンデス山脈に生息する鳥で、タカ属コンドル科に属する猛禽類とはなんら関係がない。ジョサイア・コンドル(Josiah Conder,1852-1920)(コンドルとは日本での呼び方で、英語ではコンダーと発音する)は、1852年にロンドンに生まれ、美術学校やロンドン大学で建築を学び、その後、明治政府に雇われ来日した「お雇い外国人」であった。明治10年(1877年)に日本にやって来たコンドルは、鹿鳴館を含む政府関係の建物や、三菱の一号館、二号館、三号館等の民間の建物を数多く設計し、文明開化の日本に西洋建築を開花させるとともに、工部大学校(現在の東大工学部)の造家学(建築学科)の教師にもなり、有能な建築家を多数育成した。彼の設計した建物の多くは関東大震災や戦災で焼失したり、また戦後取り壊されてしまったが、島津家袖ヶ崎邸(現清泉女子大学本館)、岩崎邸、古川邸などの残存する彼のすばらしい建物を今でも見ることができる。

 では、カーディフ城の城館と鹿鳴館にはどのような関係があるのだろうか?結論から言うと、残念ながら建物に関しては直接の関係は何もないが、これらの建物の設計者であるバージェスとコンドルの間にわずかながら接点がある。というのは、コンドルはロンドンのバージェスの設計事務所に、1873年から1875年までの2年間、在籍したことがあるのだ。なぜ彼がわずか2年でバージェスの事務所を辞めたのかはわからないが、コンドルがバージェスの事務所を辞めた翌年、彼はイギリスの建築家の「芥川賞」にあたるソーン賞を受賞した。それが認められたのであろうか、明治政府はこの新進気鋭の建築家コンドルを日本に招聘し、彼に鹿鳴館をはじめとする政府関係の建築物の設計を命じ、また日本人建築家の育成をまかせたのだった。彼は期待に応え、文明開化の日本に西洋建築を根付かせ、また日本建築界の将来を託すに足る優秀な建築家を数多く育てた。
 
 コンドルから学んだ第一期生に、日本銀行本店や奈良ホテルを設計し、後に帝国大学工科大学(現東京大学工学部)学長となった辰野金吾(1854-1919)がいる。彼は明治12年から16年までイギリスに留学したが、そのときにロンドン大学やウィリアム・バージェス事務所で建築を学んでいる。これらの大学や事務所はコンドル自身がかつて建築を学び、また建築家として修行をした場所であったが、ここにもコンドルとバージェスとの絆を垣間みることができる。
 
 日本の近代建築に多大な貢献をしたコンドルは日本人女性と結婚し、大正9年(1920年)、東京で死去した。享年67歳であった。


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