校長先生の日々21:補習校で続ける俳句と短歌

校長先生の日々(21)補習校で続ける俳句と短歌

 補習校で毎週、俳句と短歌の宿題を出しています。必須の宿題ではありませんが、中には、毎週書くことを目標にする子供もいて、皆、自由におおらかに書き続けています。

 きっかけは、今から約二十五年前、補習校で初めて小一を担任した時のことです。あのねちょう(日記)よりも短い分、とっつきやすいだろうと単純に考えて、クラスの子供たちに俳句の宿題を出し始めました。しかし、当の私は、今まで一度も俳句を作ったことがありません。そこで勉強のつもりで、子供たちと一緒に俳句を作ってみることにしました。作品は、当時の校長先生が、国語専門の方でしたので、しばらくの間、添削していただきました。そして、日本に一時帰国する度に、子供歳時記や俳句の本を購入して、参考にしました。短歌の導入は、その後です。俳句にもう少し言葉を足したい場合は、短歌にできそうだと、これもまた単純に考えて、俳句か短歌か、自由に選べるようにしました。運よく、第三代校長先生の奥様が、日本で歌の会に入られていて、子供の歌誌をまとめて送ってくださいました。こうして、俳句と短歌作りが、だんだんと学校全体に浸透していきました。
 それから十年以上たったある日。晩年になった父が自費出版した歌・句集が、エアメールで届きました。受け取って、本当にびっくりしました。何しろ、父に俳句と短歌の趣味があることを、全く知らなかったのですから。
 父は、会社員から教員に転職し、高専で定年を迎えました。六十三歳の退官記念に、句集を出版したいと思ったものの、少し俳句の世界に関わった者が、自分の力を顧みずに背伸びをするように思われて、踏み切れなかったそうです。それが七十歳になり、非常勤講師からも開放されて、身辺整理を始めた矢先。物置の中から、五十年程前の学生時代のノートと一緒に、短歌を投稿していた若人の詩歌雑誌が出てきて、気持ちが動いたらしいのです。そうした出版に至るいきさつが、前書きと後書きに書かれていました。
 父は、最初、短歌を作っていて、本の最初に、十九歳から二十歳の頃に作った歌が、八十八首、収録されていました。自然の風景を読んだ歌が多かったのですが、青年時代の父の心情に触れるのは、気はずかしい半面、タイムカプセルを開けたような新鮮な感動を覚えました。
 父は、短歌の後、俳句に転向しました。父には、短歌よりも俳句の方が、性に合っていたらしく、俳句の会に所属していた知人に誘われて、一時期は複数の俳誌に、熱心に投稿していたようです。本には、約四百句程の俳句が、一ページに三句ずつ掲載されていました。作品を読み始めてすぐに、一つの句に目がとまりました。日々、歩みが強くなる子の姿を、詠んだものでした。まてよ、と章の最初にある年代を確認すると、間違いありません。それは、私が一歳になる頃の作品でした。よちよち歩きの私を見守る父の背中が、目に浮かび、ふいに胸の奥から熱いものがこみあげてきました。私を慈しみ、育ててくれた父の愛情が、十七文字の中にぎゅっとつまって、色あせることなく輝いて見えました。俳句も短歌も、まさに言葉のタイムカプセルなのだと思いました。
 補習校は、仕事の延長線上ながら、私に俳句と短歌との出会いを与えてくれました。子供たちのように、書き続けるところまでは、手が届きませんが、出会えてよかった宝物の一つです。きっと父も空の上から、応援してくれていることでしょう。(2015年4月)

 

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